明けない夜はあります。私がうつだった頃の話。

今回は読み物として投稿します。
画像は入れていません。
最後の部分には社会保障などセーフティネットについてチラッと触れています。

本文

今これを書いているという事は、私の夜は明けたという事です。

けれど、もし運の良さや偶然などが絶妙にかみ合わなかったなら…
きっと私の夜は明けなかったのだと思っています。

今から十数年前、私は「軽度」のうつ病という診断を下されました 。

軽度と言うと軽い気分の落ち込み程度の印象かと思います。
しかし実際はそんなことありませんでした。

常にある希死念慮、自傷行為、希望の見えない未来、まとまらない考え。
絶望に包まれながら1年近く毎日泣いていました。
涙って枯れないのです。

チューハイさえ飲めなかった私が、2日で1升瓶を空けるようになったのもこの頃。

「明けない夜は無い」なんて言いますが、それは夜明けが来なかった人達が消えているからなんですよね。

働くのは生きる為。
生きることを諦めた自分が仕事には向かう。
矛盾を感じます。

実際は「今よりもっと悲しい思いをしたくない」
そう思い自分を守っていたのだと思います。

仕事を辞めたら次がない。
休職ってどうやるの?
やっぱり終わりにしてしまいたい。

休職を上司に相談する事を考えても、それをキツく詰められる事に怯えます。
「そんな辛い思いをするなら我慢して働く方がマシ」と思ってしまう。

当時は高次脳機能障害を持つ利用者の対応をしており、怒りのはけ口は私でした。

暴言、暴力は当たり前ですが、距離を置いても粘着されて責められます。

味方はいません。

あまりに辛く心療内科を受診。

当時はインターネットでメンタル受診を勧める漫画が流行っていました。
そのおかげで病院へはかなり行きやすかったです。

問診の際、ニコニコ笑いながら話す私を見て先生は怪訝な表情。

「軽く話して薬をもらえば楽になる」

そう思い、普段通り笑顔を貼り付けました。
しかし、根幹の部分にさしかかると。
辛さの原因を話そうとすると声が出なくなります。

喉が締め付けられるような、首を内側から引っ張られているような感覚。

「…あれ」
「…ちょっと待ってくださいね」
「…いや実はですね」

関係のない単語は出てくるのに、大事な言葉が発せない。

頑張って話そうとし、やっと声が出た時には泣いてしまいました。

抗うつ薬の服薬開始。

メンタルが弱いのは自覚していました。
だからこそ、リカバリーする方法も持っていましたよ。

サウナと銭湯が今でも好きです。

少し元気になれるのですが、本格的に弱ってくると熱いのだけれど熱さを感じない。
汗は出てるし、熱いのはわかるのに。

湯船に入っても同じ感覚。
ただそこに身を置いているだけな感じで、回復手段さえ「やるべき事」になってしまっていました。

当然、回復しません。

1年ほどの間、薬を飲みながら頑張っていたのですが、とうとう限界に。

私は壊れてしまい職場で大声で泣いてしまいました。
当然周りには職員も利用者もいます。

自分が子供みたいにギャンギャン泣いているのが意外でした。

心と体はすでに分離していて「あぁ自分はこうやって泣いたりするんだな」と、どこか他人事のように自分を観察していたのを覚えています。

その後、待遇を下げるかどうするか。
その選択を迫られます。

心が折れ、続行不能なのは自分でもわかりました。
仮に少し仕事が楽になっても以前のようには働けない。

退職しました。

促されてではありますが、この選択は今でも正しかったと思います。

退職後、どうしていたのかは正直覚えていません。

カードローンを生活費にあて、市税滞納の封筒が届いた事だけ覚えています。

「動けないけど働かなきゃ」
「消えたいけれど消えたくない」

その思いはあり、バイトから再起を図りました。

介護は無理と思ったので、宅配系の料理屋へ面接に。

グループホームの経験があったので、何とかやれると思ったんですよね。

店長さんは非常に熱意のある方。
「俺たちは本当に食べ物の事が好きでこの仕事をしている」
「君はその熱意を持てるかい?」

ありきたりな断り文句でない。
ハッキリと分かりました。
彼の眼には本能に訴える強さがありましたもの。

食べ物に対する熱意が本物。
腰掛けで緩く働こうと考えていた私はその場で辞退。

「そうだな!がんばれよ!」

面接失敗で励まされるのは初めての経験。
とても嬉しく感じました。

真剣に向き合ってくれたのだと。
人間として扱ってくれたのだと。


やっぱり介護しか行けないのかな?

夜に眠れる生活を求めて夜勤無しの施設へ。
即採用。

経歴だけみれば即戦力。
面接はもちろん貼り付き笑顔。

ただ夜勤が無いぶん給与は安い。
交通費も足りていない。

仕事は楽でした。
生活は困窮しました。

出勤のためのガソリン代が捻出できない。
食事はバランス栄養食を1日1箱。

職場の賄いが生命線でした。

生活が成り立たず、結局退職。

同時期に親の借金発覚と債務整理が降りかかります。
体が弱っているので私の住む街への引っ越しもしなければ。

悪い事って重なります。

その後の話。

少しの休息が取れメンタルが少し上向きました。
料理屋の店長さんの言葉を胸に、再々就職ができました。

私は運に恵まれていたのでしょうね。

今では生活できる給与をもらえるようになりました。

恋愛をする余裕もでき結婚。

これでハッピーエンドという訳ではなく、今でも課題は次々と出てきます。

実際にちょっとヤバかった時期もありました。

けれど、平穏や幸せって多分こうやって足掻きながら得ていくんだなと思えるようになりました。

消えずに良かったと考えられるようになりました。

これを読んでくれたあなたへ

消えてしまいたい。
そう思いながらも生きている。

本当に消える事を望んで、そうなってしまうのではないですよね。

他に選択肢が無くなってしまったから。
仕方なく。
どうにもできず。
嫌だし怖いけれど、それしか無い。

そうやって人は自ら消えて行くのだと思います。

必要なのはその場限りの慰めではありませんでした。

休息を取ること。
そのためにはお金が必要。

しかし手元には貯金が無いどころか生活のための借金ができた。
税金の滞納もあり差し押さえの予告が来た。

それ以外にも親の借金発覚、それに伴う債務整理、引っ越しに絡むトラブル。

1人ではとても無理でした。
手続きに必要な書類作成は家族を頼りました。


後に知ったこと。

実際にはちゃんとセーフティネットがありますし機能しています。
「健康で文化的な最低限度の生活」は私達にも適用されます。

当然と言えば当然なのですが、調べると弾かれる話ばかり目にしてしまっていたもので。

さて、セーフティネットは役所とハローワークです。
私のケースだと本来ならば労災保険か傷病手当が受けられます。
支給額は給与の6割程度。

その数字が絶望を感じさせますが、総支給の6割です。
これが非課税で支給されます。

平たく言うと、月の収入は変わらないって事です。
税金が引かれていないのですから。

税金未納は市税事務所に相談。
無理ない範囲での分割払いをさせてもらえるようになりました。

セーフティネットとは別ですが、債務整理は弁護士さんに頼みました。
普通のお店にあった無料相談ブースでのご縁。
CMで見るあそこではなく、個人事務所の弁護士さんです。

弁護士報酬は、取り戻した過払い金の中からの支払いにしてくれました。

結局、全てが落ち着いてから知りました。
当時は擦り切れていたので調べる事もできずにいたんですね。

おかげで、セーフティネット関連は割と詳しくなりましたよ。

悪い事も後々糧になるものですね。

労災と傷病、どちらを選ぶかは本人次第の状況でした。

私は多分、傷病手当を選んだと思います。
職場に行くのは気持ち的に無理でした。

選択できた事は断言できます。
うつが寛解した後に身内の手続きを、私が代行したからです。

あれは…弱っている状態では無理です。

もし、これを読んでいるあなたに身内などいるなら。
頼れる人がいるならば頼ってください。

書類を作るだけでも大変ですので。

役所やハローワークへ行くのも大変かと思います。
身内や友人、知り合いでもいいので頼ってください。

どうか、あなたが消えてしまいませんように。

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